戦国時代のトリビア『伊達の兵法に敵味方の区別はない』
実際に出たトリビア
愛の兜をしてた戦国武将がいた
豊臣秀吉は
指が6本ある。
伊達政宗という
小惑星がある
>>12のネタに被るけど…。小惑星の中には伊達政宗の正室の名を冠した物もある。
有名だけど対になる話なので。一応補足すれば伊達政宗とめごを名付けたのは同じ人。
浅井長政は徳川家光の祖父。
ホント
逃げる時、怖すぎて
脱糞した天下人がいる
>>17
しかもその屈辱を晩年まで忘れないために、絵師に描かせたというのは、
大河ドラマ作中で紹介されちゃった超有名な話
>>17
マジで!?w
武田信玄は
明治の板垣退助と親戚である。
上杉家の主要財源は
他国で狩った奴隷売却利益
宇佐美定満は
溺死
俺からも一つ
服部半蔵は
松尾芭蕉かもしれない
太りすぎて
馬に乗れず逃げ遅れ、討ち死にした部将がいる
>>42
該当人物が有名ドコロで二人いるな。
猿にお前以上に出世したぞ。と偉そうに話しかけられた元天下人は
落馬が原因で逝去
丹波八上城攻めにおいて明智光秀の母が磔にされたというのは
ガセ
大阪の夏の陣で、
伊達政宗は手柄のために味方を一斉射撃した。
言い訳は、「伊達の兵法に敵味方の区別はない」
>>47
凄い言い訳wwwww
すごw
道の糞と名乗った武将がいる
松永久秀は蟋蟀マニア
尼子経久はケチなクセして
人に物をあげる癖がある
徳川家康はケチなクセして
お金を使うときは半端ない使い方をする
山本勘助は
実は素晴らしい剣豪だった。十数名に囲まれ切り捨てた。
宮本武蔵は
島原の乱で 名 も 無 き 農 民 に大怪我を負わされた。
これは事実! みなさんがよく眼にする、聖徳太子の絵は、本人の絵ではない! 源 頼朝のよくみる絵も、本人じゃない! 足利尊氏の絵も(馬に乗っている絵)も本人じゃない
武田信玄の肖像画(ハゲ頭の絵)も本人じゃない!正確には、畠山義継ってヤツらしい
鎌倉幕府の創立は1192年と、誰でも知ってるこれも正確じゃないらしい! 本当は1185~1189年の間らしい。正確な年は分からないが1192が違うのは事実らしい
これはひどい
トリビアじゃないけど、今日は大谷吉継の法要があります。
山県昌景は
身長130cmの小男でしかも兎口症
これくらいは戦国好きなら常識だが
穴山梅雪は
鼻がなかった。
家康の嫡男・信康の妻(名前忘れた!)と、家康の妻で姑の瀬名と、もの凄く仲が悪かったらしく、信康とも不仲になり、妻が自分の父・信長に信康と瀬名が武田家に通じてるとデマを言って、それを信じた信長は激怒して家康に二人を殺させたらしい
>>87
信康母子殺害は
家康主導だった。
秀吉の手形が残ってるが、運命線が手前から指先まで続いてるが、実はこれは自分で手に傷をつけたものらしい… 実際に秀吉は自ら作った運命線以上の運命を経験するがね
秀吉は優秀なエンジニアである。秀吉が生まれた集落は優秀な技術者たちが集う村だった。墨俣一夜城の時地元民の技術者たちと通じていたからこそ実現できた日本で初の下水道を作ったのも彼だし、四畳半一間という和室の定番な形を考えたのも彼が最初。
村上義清と斯波義統は
血のつながった従兄弟
>>104
マジで!?へぇ全然知らなかったわw
オノ・ヨーコは戦国大名大友家臣小野鎮幸の子孫
静岡県袋井市にある可垂寺には、家康が隠れたとされる穴、通称六文字穴がある。
夜中に灯りを持たずに入ると大変な事になる。
トリビアでは無いが一応。
>>123
大変な事って何だろう…
>>124
出口がわからないんだ。マジで。
今川義元は
桶狭間の戦いで討たれる直前はかなり抵抗してた。
補足、義元は服部小平太に切りかかれるも逆に脚部を切った、そして毛利新助と
乱闘になるが遂に討たれるまた義元は乱闘の間に新助の人差し指を噛み千切るほど
抵抗してたそうだ。
信玄の隠し湯とよく言われる石和温泉は
実は明治時代以降の発見
>>137
へぇ
>>137石和温泉は、信玄の隠し湯じゃないよ。信玄の隠し湯は、積翠寺温泉、 湯村温泉、下部温泉、川浦温泉、増富温泉です。
会津娘子隊に投降を呼びかけて、武器を捨てて近づいたところを、薙刀で真っ二つにされて死んだのは、、
俺の五代前のご先祖様
朝倉宗滴は
織田信長の台頭を予言していた
詳細:彼の発言を家臣がまとめた「朝倉宗滴話記」に
「織田上総介の行く末をもう少し見届けたい」と言ったような事が記されている
織田宗家の当主は、現在埼玉県職員である。
織田信長は
お歯黒をして輿に乗っていた
戦国時代からはズレるけど
楠木正成と観阿弥は
叔父と甥
※「観世系図」によると観阿弥の母は河内の橘正遠の娘となっている
これまでの研究で楠木正成の父が正遠と名乗っていたらしきことと、楠木氏の本姓が橘氏であったことが明らかになっている
>>167
板違いなネタだけど10へぇ
戦国時代、織田信長に陣中で使用するトイレが献上された。それはかなり豪華なもので
見事な絵が描かれており、金箔も使用されていた。
後日、そのことを聞いた者が同じような物を徳川家康に献上した。
しかし、家康は「糞が絵を見るか!!」と言って破壊してしまった。
>>176
家康かっこいいw
>>176
家康に糞の話題はタブーだったんだろうな
>>176
それで、糞たれたのか!! なるほど。
豊臣秀頼は
身長:190cm、体重:160kgの、贅肉ボブサップだった。
(かまぼこ大好きっ子で、その体格から馬にも乗れず刀も脇の肉がジャマで振れなかったとか)
明治の外務大臣陸奥宗光は
伊達政宗の子孫である
上杉景信は
天然痘にかかっていた
よく戦国武将が~升の酒を呑んだって文献が在るが昔の日本酒はアルコール度数がビールと同じく5㌫程度だったので大量に呑めた。
スネ夫やイヤミ、999号の車掌さんの声でおなじみの肝属兼太は、
大隅地方、島津と激戦を繰り広げた戦国武将、肝属氏の嫡流嫡子。
戦国後期から始まった城の天主の建造。
後にも先にもこの天主で実際に生活した城主は安土城の信長だけ。
・加藤清正は城に精通していたが、関が原合戦の際
主力を欠いた小西行景(行長の弟)の守る宇土城を落とせなかった
・しゃぼん玉の名付け親は石田三成
・戦国時代では合戦のとき基本的に馬から降りて戦っていた
戦国時代に
火縄銃を使って自殺した武将がいる
>>232
どうやって?
池田和泉守。
荒木村重の家来で、頭をぶち抜いて自害したんだと。
勇気あるのか、チキンなのかよくわからん武将だなw
伊達政宗は、健康のため、
規則正しく1日3回、朝昼晩
タバコを吸っていたwwwwww。
西洋のランスナイトの実態は分からないが、
武田騎馬隊を検証する番組で、体高(ちなみに肩の高さ)125cm前後のポニー数頭集めて
155cmの男性に35kgの錘をつけて走らせたら、100~150mでどの馬も
動かなくなってしまった。
騎馬突撃はムリだったんじゃないか?
という結論だったと記憶している。
当時西洋の馬は平均150cmだったと思うが
比叡山焼き討ちで5000~10000人を粛清した信長。
その感想を「誠に気を散じ候」(スゲーすっきりした)と手紙に書く。
どんだけだよ・・・
あげるぞー
みんなトリビアだすんだ!
戦国時代の農民は、搾取されてるイメージがあるが、実は超狂暴な存在。
農閑期にはいくさにアルバイト的にかかわり、敵国の住人を殺戮しまわった。
落武者狩りの凄まじさ
自軍からはぐれた武将が、農家を見つけ水と食べ物を貰う、よくありそうな話だが、実際はありえないらしい。
戦国時代の農民は決してカワイソウナ存在ではなかった。
信長の有名な「天下布武」
じつはこの「天下」の範囲、畿内周辺に限られたものだった。
その証拠に信長、六角や三好を追い払った時点で、「天下静謐」を宣言している。
戦国のちょっと後の話だが…
承応元年(1652)、近江で、お茶に桑の葉を混ぜて売ると言う食品偽装事件が起こって、茶の価格が下落。
農民が要請して偽装禁止の法律が執行されてたりする。
もう少し時代が下って正徳二年(1717)、今度は特産の柿の偽装事件が発覚。今度も農民側の要請により
これを規制する「柿法度極の事」と言う法律が執行されたりしている。
近世初期になると既に、今の世とあまり変わらないね、と言うお話。
文禄二年(1594)
原田孫七郎が高山国(台湾)に、入貢を促す使者として渡海。
しかし、台湾の原住民族高砂族は統一した政権を持っておらず、入貢させる相手が見つけられないまま、
孫七郎帰国。
毛利元就の謀略により、内通の噂を流され、陶晴賢に殺されたとされる江良房栄。
実は本当に元就と通じていた。
江戸期の越前では、まとまらない会議を、「小田原評定」のような形で、朝倉義景から、「義景相談」と言った
信長がやったことで有名な比叡山焼き討ち
実は信長の前に、足利義教と細川政元もやっている。
京の治安維持上必要があった場合、比叡山などの宗教勢力を攻める事は、
室町幕府の権能の一つとして、認められていたものらしい。
アレを信長の無神論とか政教分離とかにつなげるのは、完全な過大評価であろう。
ついでに信長は、幕府の官職に付かずに天下をコントロールしようとした事など、細川政元の施策を
真似していた節がある。
大坂城の堀埋めの話。
大坂城で、秀吉が家康と酒宴を行なった時。
秀吉は上機嫌で「この城は誰にも落とせん」と言った。
家康「では殿下でも無理ですか?」
秀吉「わしならすぐ落とせる」
家康「ほう!それはどのようにして?」
秀吉「それはな、・・・・・・・・」
堀を全部生めて丸裸にするのはこの時の話から。
家康は後に大坂の陣に関して「太閤こそ我が師匠だ」と語った。
戦国最強は首切り茂吉と言う農民だったらしい。
17歳から戦場で戦い、57歳までの間に40数度の闘いに出て居る。
槍も刀も貸し出し品は一切手にせず、鎌一つで戦ったと記録に有る。鎌一つで一度の戦で7人を殺したとも言われてる。
あまりの残虐性と強さのため武将達から「首切り茂吉」と言われていた。
高禄で召し抱えたいと申し出た織田信長を前に、あさりと断り、年貢を免除して貰いたいと願い出た。
自分の申し出を断られ激怒した信長は斬りかかるも、茂吉は信長相手に蹴りを入れて倒して「やるならやんぞ!!」と
怒鳴りあげたと言われている。
その後信長の領地で唯一年貢を免除された男として首切り茂吉は有名である。
かの秀吉も茂吉を召し抱えようとするも「秋だし狩ろうかな」と言われて引き下がったと言われている。
なぜ茂吉が首切り茂吉と言われるか、その自宅には今まで倒した男達の首が置かれており、その数は500を超えていたと言う。
一体人知れずこの男はどれだけの戦功をあげていたのだろうかと織田家中では伝説的な農民であった。
40数度の戦に出て、生き延びた首切り茂吉。有名ではないがまさに最強であり多数の戦をした男である。
57歳の時、ついに茂吉は関ヶ原にて可児才蔵との激戦の末、首を打たれたと言う。
※創作コピペ
>>317
>ついに茂吉は関ヶ原にて可児才蔵との激戦の末、首を打たれたと言う。
じゃあ可児才蔵が最強じゃねーか
>>320
ちょww
信長が相撲好きで、相撲大会で活躍した人間に褒美を与えたり取り立てたりしたけど、
実は家臣に取り立てた相撲取りは全員、もともと武士身分だったそうで。
日本人が使ってた鉄砲は、戦闘用でなく狩猟用の鳥銃だった。しかも保有量は世界一
有名な話かな?
伊達正宗の騎馬鉄砲隊は
実際に射撃するときは下馬して射撃した(98へェ確実)
室町幕府には、「会議」が存在しなかった。
基本的にみんなが顔を合わせる、と言うことが無く、何か懸案があった場合、書状や書類が
関係者の間をめぐって、なんとなく方向性が決まる、という方式だった。
同じ室町時代なのに、鎌倉府のほうには月二回だかの、鎌倉公方以下、関東管領
や重臣達を集めた衆議があったんだよな。不思議だ。
戦国時代に瀬戸内海を荒らしまわった海賊・村上水軍のうち
毛利家に臣従した因島村上氏のほうは関が原の戦の後も毛利家に仕え、
長州の船手組(海上警備や海路の参勤交代の担い手)となった。
いっぽう、来島村上氏のほうは豊臣秀吉に臣従して一時は独立大名となるも
徳川幕府の時代になると山奥の豊後玖珠郡(現・大分県玖珠町と九重町)に転封、
完全に海から遠ざけられてしまった。
>>369
来島氏は、山の中に池を造って、そこで昔を偲んでお船遊びをした。
このころの寺社は集めた金でお金を貸していた(祠堂銭)のでしばしば一揆の標的にされた。
江戸時代の打ち壊しのような悪徳者を狙う同情の余地があるものだったが
土一揆は単に略奪したいから金持ちを狙うだけの同情の余地が無いものだった。
金利が安い良心的な寺社でも狙われるので
そういったものから守るために寺社は堀や石垣などで防御していた。
有事の際は地方領主が寺社を城がわりに利用したので寺社はもっとも血なまぐさい場所だった。
武士の誕生から、一騎打ちは極めて稀で特殊な状況でのみ行われた。
平安時代から武士の戦術は、集団で敵を取り囲み、大量の矢を射掛けて相手を針坊主に
して殲滅するのが基本。
当然元寇の時もこれをやり、元の軍隊は上陸拠点を作ることすら出来ないほど
武士の戦術に翻弄された。
八重洲の地名の由来にもなったヤン・ヨーステンは
オランダに帰ろうとしたが、ジャワでの帰国手続がはかどらず帰国を断念。
いったん日本に戻る途中のインドシナで船が難破して溺死した
最近真偽を疑われている信玄と謙信の一騎打ちは史実
鬼武蔵として恐れられた森長可は
弟蘭丸を本能寺の変で討ち取った安田作兵衛を
「武功は武功」と周囲の反対を押し切って召抱えた。
松永久秀は三次三人衆と戦争中に
クリスマス休戦を戦国時代で初めて提案した。
また彼は初めて火薬による自爆で最期を遂げた戦国武将でもある。
江戸時代、犬猿の仲だった南部と津軽は
実は一度も本格的な合戦をしたことはない。
凍み豆腐を開発して戦場に持参させたのは、伊達政宗
200年以上絶交していた伊達家と浅野家だか意外なところで接触している。
松の廊下事件で浅野内匠頭を取り押さえたのは吉田藩主伊達村豊(政宗曾孫、当時宗春)
浅野内匠頭があずけられ、切腹したのは一関藩主田村建顕(同じく政宗曾孫)邸。
「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し」は
苦労人らしい徳川家康の遺訓として扱われるが
実際は徳川光圀の言葉
このように、家康の美談などは神君として奉られた後世の創作が多い
父が犯した数々の戦争犠牲者の霊を祈祷するために
豊臣秀頼が普請した神社仏閣の膨大な費用を個人財産で支払い。
その支払われた費用の一部に税金を掛け、建設業者から巻き上げ
豊臣氏を滅ぼすための鉄砲の弾(鉛)の購入費用にあてたのは家康。
現代にも通じる政治のカラクリ
>>426
「戦争犠牲者の追悼」?
普通に豊臣の繁栄を願ってじゃないのか?
徳川家康は野戦が得意で城攻めが苦手
…というのは司馬遼太郎の創作。
初めて大規模な長鑓隊を作って戦線に投入したのは遊佐長教
関東で本能寺の変を知った滝川一益は、信長横死の情報を包み隠さず関東の諸侯に伝えた
…というのは後世の作り話。実際はひた隠しに隠した。
>>442
ワロタw
三法師はのちに元服して織田秀信と名乗り
秀吉への恩義から関ヶ原では西軍側につく。
降伏後は岐阜の所領を没収され高野山へ追放された。
その後は高野山のふもとの村の郷士になったとも
一万石の大名として復活したとも伝えられる。
高野山は、多くの戦国武将が追放された場所として有名だが
高野山という名の山はない。
「高野山」とは宝珠山・弁天岳・摩尼山などの八つの山々に囲まれた
盆地のことを指す地名である。
ちなみに、ユネスコは2004年に高野山を世界文化遺産に登録している。
大御堂寺は秀吉が賤ヶ岳の戦いの後
降伏した敵首謀者の織田信孝を移して切腹させた場所として有名だが、
かつて平安時代に源義朝が暗殺された場所でもある。
戦国時代からちょっとずれるが
島原の領民を重税と暴政で苦しめてのちの「島原の乱」を誘発させた松倉重政だが、
彼はその前の大和十条藩の統治では労役免除、城下町整備などの
産業振興策を行ったことで領民から名君と崇められ、彼を称える祭りや石碑まで作られた。
秀吉の造った黄金の茶室は大阪夏の陣で燃えてしまったが
金の茶釜だけは焼け跡から掘り出された
関ヶ原の戦いは天皇が関与してない戦いで日本史上最大規模
この記録は今もやぶられていない
豊臣秀次の名前の読みは「ひでつぎ」
「太閤さま軍記のうち」より。
>>478
!!?
マジか!
諱はめったに呼ばれることはないので、秀次が「ひでつぐ」でも「ひでつぎ」でも、「しゅうじ」でも
特に問題はない。
そういうもんなのか・・・